【徒然本店】落語の操縦士(前編)
国立本店メンバーによる連載エッセイ「徒然本店」、今回はアキヤマがお届けします。
私は久しく落語から遠ざかっていた。
高校生の時から落語をよく聴くようになって、大学では落研に入るほど落語にのめり込んでいた。何にそこまで魅了されていたのだろうか。
正直な話をすると、当時「伝統芸能」を演じる自分に酔っていた。
だから演者でなくなった瞬間に一気に興味がなくなったのだと思う。
そして私の興味は、長い年月をかけて音楽、文芸、映画へ向くことになった。
落語はこれら全ての集合体なのかもしれない―という可能性も考えずに、
私は「落語」をどこかに置き去りにしてきた。
2022年5月1日、約十年ぶりにプロの落語を見に行った。正直もう落語を見に行くことはないと思っていたが、気付けばあっさりと重い腰をあげていた。理由は二つある。
一つ目の理由は、友人がとても贔屓にしている落語家の独演会だったこと。
二つ目の理由は、好きなライターの著書にその落語家が一瞬登場していたこと。
後者の理由が私の重い腰をあげることに大きく寄与した。
私は生粋のミーハーなのだ。
十年ぶりに見ることになった落語家は「立川吉笑」で、
ミーハーな私が敬愛するライターは「九龍ジョー」で、
吉笑さんが登場した著書は「メモリースティック」だ。
DU BOOKSから2015年に刊行された九龍氏の著書「メモリースティック」は、
「ポップカルチャーと社会をつなぐやり方」と副題があるように、ポップカルチャー全般と社会のつながりが様々に語られている。
つまりこの本の中には、落語への熱気を失った後で私の心を燃やしてくれた様々なトピックが山ほどあった。その中に、吉笑さんも登場したのだ。
雨が降りしきるなかでも吉祥寺駅は混雑していた。
南口にある丸井へと繋がる交差点は、カップルや家族連れでごった返していた。
井の頭公園に向かう大行列を横目に、独演会の会場である武蔵野公会堂へと向かう。
コロナ対策で交互に空席を作っていた会場は熱気で溢れていた。
「今日はどうやって楽しませてくれるのだろうか」
そこかしこから、そう聞こえた気がした。
というより、熱気の隙間からそんな声たちが漏れ出ていた。
みんなこの人を好きで観に来ているんだ。そりゃそうか、独演会だもん。
じゃあ、私だけでも冷静に観てやろうじゃないか。
天邪鬼な私は、ワクワクと高揚した周りの観客を見てそう心に決めた。
しかし、そんな決意も束の間だった。
気付けばオセロを返すように、私も他の観客と同じ色に染まっていた。
あれ?いつの間に?
何が良かったのか、何に感動したのか、何をもって同じ色に染まっていったのか正直わからない。さっきまで周りの期待値に過剰に反応して、あんなに斜に構えていたのに。
私は今、色だけでなく、熱も帯びてきている。周りの観客と同様に熱気を放っている。
あぁ、観客はこれを楽しみにして、この高揚を待っていたのか。
あぁ、ポップカルチャー全般を網羅している九龍さんは、ここを見ていたのか。
あぁ、クラブで周りの客と一緒に盛り上がっていくようなこのグルーヴ感、たまらない。
2022年5月14日、吉笑さんをとても贔屓にしている友人が吉笑さんの落語会を主宰した。
独演会で声をかけ、メールでやりとりをして、告知をして、集客をして、各方面に調整をして、舞台のないところに高座を作って、感染対策をして、進行をして、本当に様々なことをやり遂げ、終わった。
そして幸運なことに私は、友人に声をかけてもらい、落語会当日、公演前の吉笑さんに話を聞いて記事を書くことになった。
私は吉笑さんの落語を一度聞いたきりだし、立川談志「現代落語論」をパワーアップさせた吉笑さんの著書「現在落語論」を読んだこともない。
何なら私は九龍ジョーが好きで、吉笑さんが九龍ジョーの友人だからとても興味があるという、
何ともいえない理由もある。
ごめんなさい、そんな人がインタビューをしてしまって。
当日は頑張ろう。当日までに他の新作落語をもっと漁ってみよう。
とにかく、落語という本筋から脱線しないようにインタビューしよう。
いや、待てよ。
インタビューの本筋なんてこちらで作ってしまえば良いのだ。
<インタビューは後編に続きます。>

労働と労働の間で探し物をしている
家では介護や家事をして、昼間は地方公務員として働いています。そのスキマで映画見たり本読んだり、俳句作ったり、自治体が作るジェンダー平等冊子でライターしたり、通信大学で福祉を学んだり…スキマに色んなことを詰め込んでやってます。