2017.12.05

国立本店ブックガイド部 第1回選書

 

ブックガイドweb用2-01

今回はシリーズ:「人と思想をつなぐ」第一回
過去にあった日本の言論文化の流れの多くは、次につながる形を見つけられず、消えていっているように思えます。「ちょっと、消えそうかも、という所を拾い上げる」というのがこのシリーズの趣旨です。過去の文脈の掘り起こしから、新たに「われわれはどういう存在か」を見出されることも期待しています。

今回は思想家の鶴見俊輔さんを取り上げます。

鶴見俊輔について

鶴見俊輔さんは哲学者、評論家、政治運動家、大衆文化研究者で、戦後を代表する知識人と言われています。1922年生まれで2015年に亡くなりました。父親が政治家・鶴見祐輔で、母方の祖父が日本の近代化政策に深く関与した後藤新平、という鶴見さんは、エリート的出自を持つ一方、その立場に反逆する思いをもっていました。小学校を卒業した以外は、欧米に渡ってからのハーヴァード大学卒業のみという経歴からも独特の知的傾向を感じます。大学滞在は戦前で、留置所での卒業論文執筆を経て、1942年に日本に帰国しています。戦後は大学に所属していましたが、1970年の大学紛争での警官隊導入に反対して同志社大学教授を退職して以降は、大学には所属せずに文筆活動を続けました。
その他『思想の科学』の創刊、アメリカ哲学の紹介、大衆文化研究などのサークル活動を行ったり、ベトナム戦争に関する反戦運動などの政治運動での活動、憲法問題に関する発言でも知られています。
鶴見さんの特徴は、哲学的な思索を生活文化レベルで論じること、専門的な説明を避け、あいまいな領域での思索を肯定的に捉えたところにあります。漫画や漫才などの大衆文化に対して、積極的に評価しようとする態度も、哲学的な背景をもちながら、専門化されない言葉づかいで深められたものです。内容的にはふるさを感じられる著作も多いかもしれませんが、その思索は今、読み返しても示唆的です。

イベントで取り上げる内容

大きく3つくらいに分けて話そうと思っています。

『アンビバレント・モダーンズ』ローレンス・オルソン

鶴見さんは戦後を代表する知識人の一人と紹介されます。それは戦争体験を受けてものを考えた知識人であり、反戦運動に関わったことなど、時代的の象徴となる言説を作った一人であるという意味でしょう。今の我々にとって、それらの言説はもはやリアルなものではありません。なぜリアルでなくなったのか?昭和の日本で知識人がどのようなアイデンティティを模索したのかに少し触れて、昔から今の流れについて話したいと思います。
取り上げるのはアメリカの日本研究者の本。近代人が直面する問題に対する普遍的な格闘を、4人の日本の知識人を取り上げることを通して示しています。江藤淳、竹内好、吉本隆明、鶴見俊輔。他の三人にはふれず、鶴見さんを通じた葛藤と時代背景を見ていきます。
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省察の時間のゆとりと知的生産への責務をたずさえた、これらの四人のような人びとにとって、人に貸した追求の実践にさまざま道があった。(略)これらの戦略は、いずれも、完全な回答などありそうにないアイデンティティの問題への、多分に道徳的で、真剣で、厳粛で、やはり不完全な回答だった。それでも、問題を見いだし、回答を求めようとしたてんあg、彼らが同時代のほかの日本人から傑出したところであり、このことが彼らを「知識人」たらしめていたのだ。四人のうち鶴見は、その著作における「プラグマティック」なアプローチで、このテーマにある種の冷静な明晰さをもたらしたが、他の三人のとった針路は、情熱的だが非現実的な理想へと向かうものだった。
(略)新しい文化的意味の探索が開始されるとき、その眼前にあったのは欧米勢力に喫した敗北という事実だった。それは抽象的なものではなく、あらゆる人々の生き方にかかわることだった。(ローレンス・オルソン『アンビヴァレント・モダーンズ』,1997,新宿書房)

『アメリカ哲学』鶴見俊輔

鶴見さんは、大学のなかで専門家として考えることを拒否した思想家でした。アメリカの哲学であるプラグマティズムをベースにして、鶴見さんは自身の思索の立場を決めています。絶対的な普遍性を求める態度を拒否する「マチガイ主義」や「日常のための哲学」という考え方がどのような思想的な背景もったものかについて簡単に話します。
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それぞれの人の生き方、見方、考え方、の反省としての哲学は、学問における厳密さをもって問題を解くことができない。そこでアイマイな思索、あてずっぽう、思いこみ、好ききらい、などがどうしても入ってくるようになる。そういう思索にも頼るのが、哲学なるものの正道であると思うのだが、しかし、それに頼っている時には、そのように自覚していなくては困る。
(略)個別科学の厳密な方法は、尊ばれなくていはいけないが、同時に、シロウトの考え方というものも尊ばれて良い。世界は恐ろしく広く、人類の思索の歴史は、まだ短いから、良識と正直とを持つ普通人が、専門の学問を通らずに直接世界について考えてみることによって、新たに発見し得る心理と価値とは、まだまだたくさん、世の中にある。(鶴見俊輔『アメリカ哲学』,1986,講談社学術文庫)

『限界芸術論』鶴見俊輔

鶴見さんには、漫画や民謡、漫才などを論じた文章があります。『限界芸術論』では、いわゆる芸術である純粋芸術(Pure Art)、ポピュラー文化としての芸術である大衆芸術(Popular Art)、2つの境界領域にある芸術を限界芸術(Marginal Art)としてその意義を論じています。柳宗悦、柳田国男、宮沢賢治などを通じて生活のなかにある芸術の意義について考察した文章でもあります。
生活において美を感じる力の重要性、様々な角度で考えた本書を通じて、今の芸術について考えてみたいと思います。
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経験全体の中にとけこむような仕方で美的経験があり、また美的経験の広大な領域の中のほんのわずかな部分として芸術がある。その芸術という領域の中のほんの一部分としていわゆる芸術作品がある。いいかえれば、美が経験一般の中に深く根をもっていることと対応して、芸術もまた、生活そのものの中に深く根を持っている。(鶴見俊輔『限界芸術論』,1999,ちくま学芸文庫)

その他取り上げるかもしれない本

『期待と回想 語り下ろし伝 鶴見俊輔』

鶴見さんの著作には座談会形式の本が多くあります。その中でも鶴見さんの考え方の全体が見えるのがこの本です。中でも「編集」を最大級に評価するその考え方が面白い。
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私の考え方は、一つのアイデアがあると、それはちがう仕方で読めるということです。(略)この考え方はスピノザにあるんです。「概念と欲望」という関係です。本の中である概念が出たときに、それを自分の欲求によって貫き通す。それによって、その概念がある方向にうごきだすものになって、自分の中に生きてくる。概念はそのようにして生きた概念になる。欲望とか関心がなければ、概念はただ平たいものなんだ。しかし、自分の欲望がその概念を貫き通し、その概念が動き出したならば、それは別の人の欲望によって動かされたものとたいじするようになる。衝突が起こりうるし、お互いの結合によってさらに豊穣になることもありうる。そういう場面が編集という舞台だと私は思う。

『日本人は何を捨ててきたのか』

鶴見さんの座談形式の本の中で、日本についてやわらく語った本です。ノンフィクション作家で漫画原作者でもある関川夏央さんとの対話で、「近代日本」は何が失敗だったかについて話しています。「知識的大衆」という観点で話される、漫画についての話も面白い。
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鶴見:だから、関川さんの「知識的大衆」というのがある。その知識的大衆のなかに、良質なのと非良質なのがある。これは、今の日本の知識人をとらえるのに非常に面白い。
関川:ただの人、普通の立派な人がいくらでも出てくる。それを心の支えにしたいですね。

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